ジャーナリストの伊藤詩織さんをディスるツイートに「いいね」を押した杉田水脈議員に一審の無罪を覆して賠償命令が出た。
杉田議員のこれまでの発言を見ると、どうみても時代の流れに逆流するもので、「受け入れられない人物である」という世の中の流れは理解できる。今回の判決も、「弱者が守られた」と考えれば良かったとは思うのだが、そこに大きな「気持ち悪さ」が残るのも否めない。
それは、なぜツイートした人はおとがめなしで、「いいね」を押した人だけが有罪なのだろう。また、「いいね」を押した人はたくさんいるのに、その中の一人だけ有罪になるのだろう。
という気持ちの悪さだ。
人を裁くには、きちんとした理由、ロジックが必要だと思うのだが、今回森田議員だけが有罪と言うのは、「単に世間の流れに迎合しただけではないか」という危惧をぬぐう事が出来ない。
もちろん、訴えられたのが議員だけだから、影響力がある人だから、と言ってしまえばそれまでではある。
が、しかしである。
「いいね」を付けた人が罪になるようなツイートを放置することは問題ないのだろうか?
名前を隠せば、いくら「いいね」をおしてもおとがめなしなのだろうか?
個人的には、ここがこの問題の本質であると思う。問題の本質を放置して一部の人間だけに罪を問うのは、ある意味「卑怯」な行為に思えてしまう。
杉田議員を擁護する気はさらさらないが、非難を浴びそうな事が解っている行為あえて名前を出してすることは、ある意味いさぎの良さを感じる。内容はともかくとして。
その、潔く表に出てきた人だけを捕まえて、その裏にたくさんいる有象無象はおとがめなしと言うのでよいのだろうか?
今回の事例はこれでよしてしても、今後、権力や、世の中の流れに逆らった人間だけを恣意的に取り締まることが出来てしまいそうなのが怖い。
そんなことはあり得ないと思う方も多いと思うが、実際にそういった国家も多数存在するし、わが国でも「忖度」と言う体で情報操作が行われている部分はたくさんありそうなので、いつどのように変わっていくかは非常に心配である。
SNSが匿名がOKである以上、所詮有象無象の井戸端会議で、嘘も中傷も飛び交うと思っていた方が良いのではないか?
それを制御するのは、あくまで「マナー」であるべきで、そこに「法律」を持ち込むべきではないと個人的には思う。
実際の社会でも、「マナー」によって成り立っていることは多い。
そのマナーが「法律」に変わった時の恐ろしさは筆舌に尽くしがたいと思うのだが。
「朝、ちょっと機嫌が悪くて挨拶をせずに無視をしたら 逮捕!!!」 なんて怖すぎる。
SNSに参加する以上、マナーの悪い人もいる事を覚悟すべきではないだろうか。
少しでも批判があると怖いなら、批判をうけたくないならSNSに参加しない自由がある。
それとも、匿名性を一切排除して、実名を原則とするか。
それでも、今回の議員のようなひとはいるのだから、傷ついたと思う人はなくならないだろうなぁ。
こんなことを言うと、SNSの主催者からふくろだたきにされそうだけれど、今のSNSはそんなに綺麗な世界じゃない。
「みんなが肯定してくれる、ただ居心地のよい桃源郷ではありえない」としっかり認識する必要があるのではないだろうか。
それは実社会でも同じで、「殺人鬼もいれば、詐欺師も大ウソツキもいる」ただ、現実世界と違うのは、肉体的には一応安全であるということだ。その分、精神的には傷つく可能性がより大きく、危険だと言う事を知るべきだろう。
ただし、現実と違う事は、この世界に参加しない自由、抜け出す自由がある。
SNSに参加する以上、そのことを十分理解したうえで飛び込み、法律ではなくマナーをもってこの世界をよくしていこうとする方向が、一番現実的ではないだろうか。